ドーモデス。タツヒコです。
皆さんは「風刺画」と聞くと、どんな作品をイメージしますか?
新聞に載ってある政治家を描いたヤツ?あるいは歴史の教科書で見たことがあるヤツ?
探せば色々あると思いますが、今我々が読んでいるマンガはこの風刺画が原点というハナシをご存知でしょうか?
というわけで今回は...
- 明治に流行した「風刺画マンガ」の概要
- ワーグマンとビゴーとは何者か?
- 風刺画がマンガの原点・ルーツと言われる理由は?
これらの内容について解説していきます。
前回のマンガ史解説記事(『北斎漫画』編)も是非ご覧ください。
目次
明治期の「風刺画(マンガ)」とは?

「風刺画の“風刺”ってなに?」と聞かれたら、皆さんは正確に答えられるでしょうか?
風刺とは、“特定の社会現象や出来事を遠回しに批判すること”と定義されています。
直接批判の声をぶつけるのではなく、距離をおいた上である種の皮肉を指摘する意味になりますね。
明治に誕生した「風刺画」は特定の人物や現象をただ批判するのではなく、
おもしろおかしく、少し角ばった言い方をすれば戯画的なビジュアルで表現した作品が多いです。
戯画はしばしマンガや風刺、意図的に歪めた描き方をする似顔絵の“カリカチュア”と同一視されることもあります。
つまり直接的な絵で批判するのではなく、
敢えておもしろおかしい戯画描写を用いて距離を取りつつ、皮肉を表現した絵画と説明できます。
これから紹介する風刺画の多くは、明治期の日本の世相を反映したような作品が多い傾向にあります。
誕生までの簡単な流れ
ペリー来航やら戊辰戦争やらで200年続いた徳川の時代が終焉し、明治時代がやって来ました。
ちょんまげを止めて“ザンギリ頭”に整えたり、スーツを着ることが当たり前になったりと、
海外の文明・文化が続々と流れ込んだことで日本の生活様式は大きく変わりました。
出版業界では亜鉛を利用した“凸版印刷”が伝来し、従来の木版画印刷よりも部数を大幅に増やすことが可能になり、
ジャーナリズムの誕生や出版文化が発展するキッカケになりました。
そしてとある二人の欧米人画家の来日により、風刺画ブームが日本で巻き起こることになります。
“ワーグマン”と“ビゴー”
明治の風刺画マンガを語る上で欠かせないのが“ワーグマン”と“ビゴー”の存在です。
彼らが日本に来日したことで、出版業界に風刺画という新たなジャンルが誕生し、
それが後の現代漫画の原点(オリジン)になったのです。
チャールズ・ワーグマン/『ジャパン・パンチ』


ワーグマンは1832年にイギリス・ロンドンで誕生。
パリに渡って絵を学んだ後の1861年に来日し、翌年に『ジャパン・パンチ』を創刊します。
『ジャパン・パンチ』は当時イギリスで大人気だった雑誌『パンチ』をオマージュした風刺画雑誌で、
ユーモアで時事的な風刺画を数多く掲載していたことから早々に注目を浴びることになります。
この『ジャパン・パンチ』に描かれた風刺画が日本人の心をわしづかみにし、マンガ絵の前身とも言える「ポンチ絵」が流行するキッカケにもなりました。
同誌は1887年まで創刊され、日本のマンガ文化の誕生に大きく貢献することになりました。
(尚、ワーグマンは来日中に小沢カネという日本人女性と結婚し、晩年は日本で過ごしたそうです)
ジョルジュ・F・ビゴー/『トバエ』


ビゴーは1860年にフランス・パリで誕生し、ワーグマンが没する少し前の1882年に来日。
日本で画塾講師として雇われた後に『トバエ』という在留外国向けの風刺画集を刊行します。
雑誌名の由来は、当時のマンガ雑誌の総称である“鳥羽絵(とばえ)”にちなんだそうです。
『トバエ』は当初、刊行された1884年の第一号のみの短命雑誌でしたが、
ビゴーの故郷フランスの公使館や関係者数名が支援に回ったことで、87年に第二号が刊行され、休刊する89年まで続きました(全70号創刊)
『ジャパン・パンチ』同様にビゴーの『トバエ』も熱烈な人気ぶりを見せ、現在では日本史の教科書にビゴーの描いた風刺画が資料として採用されています。
ジャーナリズム精神旺盛なビゴーは『トバエ』以外にも多数の風刺画雑誌を刊行していましたが、
日本と欧米間の条約改正の影響で従来の活動が厳しくなり、
1899年にフランスへ帰国。その後は大衆向けポスターや挿絵画家として活躍したそうです。
現代漫画と「風刺画マンガ」の関わり
風刺画についてザックリとまとめましたが、
なぜコマ割りもオノマトペも描かれてないこのジャンルが、マンガの原点とされているのでしょうか?
理由は大きく2つ挙げられます。
鳥羽絵→ポンチ絵→マンガの流れ(戯画描写の系譜)

我々が今読んでいるマンガと言えば、ジャンルの違いこそあれど、戯画的なビジュアルが必ず存在しています。
風刺画・ポンチ絵が流行る以前の江戸時代には、『トバエ』の由来にもなった「鳥羽絵」が大衆娯楽として親しまれていましたが、
当時の「鳥羽絵」の中にも戯画はふんだんに描かれ、『鳥羽絵三国志』『鳥羽絵欠び伸』などの鳥羽絵を冠した作品が次々に登場し、
読者にとって親しみのある表現とされていました。
その後『ジャパン・パンチ』『トバエ』が登場して風刺画・ポンチ絵文化が流行し始めます。
先述の通り、風刺画・ポンチ絵はおもしろおかしい戯画描写を用いて皮肉を表現した絵画と説明しました。
日本でヒットしたのは、世相を反映したユニークな内容が面白かったのもあると思いますが、
一番はやはり、戯画が既に日本人にとって既に馴染みのある表現だったからと言えます。
そしてその戯画表現が徐々に形を変えたり、新要素を付け足されたものが「現代のマンガ」となるわけです。
日本人漫画家の誕生&風刺画ブーム
ワーグマンとビゴーが出版界でブイブイ言わせた影響で、
彼らの風刺画に心を奪われた日本人風刺画作家(漫画家)が次々と現れ、風刺画・ポンチ絵ブームが到来します。
- 1862年:『ジャパン・パンチ』(ワーグマン)
- 1874年:『繪新聞日本地(えしんぶんにっぽんち)』(仮名垣魯文/河鍋暁斎)
- 1877年:『團團新聞(まるまるしんぶん)』(野村文夫)
- 1884年:『トバエ(第一)』(ビゴー)
- 1887年:『トバエ(第二次)』(ビゴー)
- 1896年:『めさまし草』(森鷗外)
- 1901年:『滑稽新聞』(宮武外骨)
- 1904年:『日ポン地』(出版:風俗画報)
- 1905年:『東京パック』(北澤楽天)
- 1906年:『大阪パック』(赤松麟作)/『上等ポンチ』(国木田独歩)
- 1907年:『少年パック』(柏原佐吉)
1900年の初頭はほぼ1年単位で、風刺画・ポンチ絵を扱う雑誌が創刊されていますね。
中でも1905年に『東京パック』を創刊した北澤楽天が、現代漫画の基礎を確立した大功労者といっても過言ではない偉人で、
後に手塚治虫が自著『漫画の奥義』にて、漫画家として彼の名前を真っ先に挙げています。
また北澤以外にも、多くの画家や浮世絵師が風刺雑誌を創刊し、風刺画文化の興隆に一役買ってくれました。
このあたりの話は、次回のマンガ史解説で詳しく取り上げようかと思います。
まとめ

いかがでしょうか。
現代のマンガはストーリーが中心というだけに、風刺の印象はあまり湧かないと思います。
しかしマンガ特有の戯画表現に“風刺”は、切っても切り離せないものということは理解いただけたかなと思います。
皆さんがよく読んでいる作品にも、よく目を凝らせば風刺的な描写が見受けられるかもしれません。
今回はここまで。オタッシャデー!!