ドーモデス。タツヒコです。
皆さんにとって、漫画家と言えば誰がイメージに登ってきますか?
手塚治虫、藤子不二雄、赤塚不二夫、石ノ森章太郎、水野英子のようなトキワ壮メンバーですか?
岸本斉史、尾田栄一郎、富樫義博、高橋留美子、吾峠呼世晴のような現代の漫画家でしょうか?
(※敬称略させていただきました)
十分すぎるほど偉大の方々ですが、実は彼らよりも昔の時代に現代漫画の基礎を築き上げた2人の漫画家・北澤楽天と岡本一平のことをご存知でしょうか。
という訳で今回は...
- 北澤楽天と岡本一平とは何者?
- どのような作品・功績を世に残したのか?
- 何故現代漫画の祖と言えるのか?
これらの内容について解説していきます。
前回のマンガ史解説記事(『明治・風刺画/ポンチ絵』編)も是非ご覧ください。
目次
北澤楽天と岡本一平って誰?

そもそも彼らの名前を聞いたことのある方は、果たしてどの程度いるのだろうか...?
多分ですが、この記事を開くまで全然聞いたことが無い人が半数以上を占めていると思います。
改めて紹介すると...
北沢楽天と岡本一平、この2人こそ現代漫画の基礎を築いたといっても過言ではない偉人であり、
あの手塚治虫が著書『漫画の奥義』にて、“漫画家として”真っ先に彼らの名前を挙げています。
もし彼らがいなければ、日本のマンガ文化は存在していなかったかもしれない、それくらい影響力のある人物だと思って良いでしょう。
とは言え、具体的に何をしたかを説明しなければその“凄み”が一切伝わらないと思うので、
それぞれの略歴と活躍を順を追って見ていきたいと思います。
キャラクター文化の先駆者・北澤楽天の生涯

まずは北澤楽天から見ていきましょう。
楽天は明治時代後半から大正時代にかけて活躍した漫画家です。
主に雑誌や新聞上で政治を基にした風刺画作品やコマ漫画を連載していた他、
ベテランと呼べる大正期にはいくつものキャラクターを創造し、キャラクター文化を興した人物でもあります。
その功績を讃え、彼の没地である埼玉県・さいたま市の「さいたま市立漫画会館」には楽天の歴史や展示コーナーを設けているようです。
彼がどのような人生を送ったのか、生い立ちから見てみましょう。
幼少期の楽天とその生い立ち

北澤楽天は1876年(明治9年)に東京・神田(現千代田区)で誕生しました。
本名を保次(やすつぐ)と言い、
内務省に勤めていた父親から医学の道を進められるも、説得して芸術の道を選びます。
幼少の頃から絵の才能があった楽天少年は、ポスターや挿絵のアルバイトで技術を磨きつつ、
当時外国人の居留地であった横浜に足を運んで、海外文化にも積極的に触れていたそうです。
新聞記者時代と今泉一瓢との出会い

1896年に楽天はアメリカのE・V・ソーン主催の英新聞『ボックス・オブ・キュリオス』の漫画記者に採用されます。
当時同じ社に所属していたオーストラリアのF・A・ナンケベルという風刺画家に師事し、西洋の風刺画法を学びながら、新聞に風刺画マンガを掲載する仕事を担っていました。
漫画記事として仕事をこなして3年がたった1899年、
楽天は今泉一瓢(いまいずみ いっぴょう)という人物の紹介で『時事新報』に漫画記事を掲載し始めます。
この今泉一瓢は楽天と同じく『ボックス・オブ・キュリオス』に採用されていた画家で、あの福沢諭吉の実の甥っ子でもあります。
一瓢はこの時病を患っていたらしく、自分の後継人にふさわしい画家として楽天を見出したようです。
この後楽天はキュリオス社を離れて『時事新報』に移籍するのですが、これが彼の漫画家としての大きなターニングポイントとなります。
『時事漫画』の執筆とコマ表現の追求

今泉一瓢の紹介で『時事新報』の専属記者に転身した楽天は、主催の福沢諭吉の支援も得て風刺漫画を連載しはじめます。
1901年に諭吉が逝去し、『時事新報』を息子の捨次郎が継いだ後は「時事漫画」という日曜日限定の付録漫画を執筆し始めます。
当時としては珍しく、1ページを丸々使用した1コマ漫画だったそうで、読者からは絶大な人気を誇っていたとか。
また1903年頃に本名の「北澤」から、ペンネームである「楽天」を使い始めるようになります。
1921年には「時事漫画」の人気に後押しされ、ページ数を4ページに増刊した『時事漫画』として独立させるに至りました。
この時紙面が増えたことで絵の表現にも拡張性が増え、絵を連続させて簡単な物語を作る試みを行いました。
これが後の“コマ割り表現”へと繋がっていくことになります。(ただし似た表現を追及した画家が楽天以前にいる為、元祖とは言えないそうです)
今まで評価されてこなかった風刺画・ポンチ絵を人気娯楽に仕上げた楽天ですが、彼の快進撃はまだまだこれからです。
“漫画”の誕生

前々回の『北斎漫画』編(↓)では、漫画という意味が、「特に深い考えや目的もなく気の向くまま描いた」という趣旨のネーミングだと解説しました。
『時事漫画』は、“漫画”というワードで気づいた方もいるかと思いますが、
現代に続く“漫画”という名称を一般化した作品として見られています
この『時事漫画』の命名には楽天と先ほど紹介した今泉一瓢が関わっていると言われています。
一瓢は前々から“ポンチ絵”というネーミングに下品なイメージが付いていたことを気にしてたらしく、新しい名前を模索し続けていました。
結果『時事新報』のコラムに掲載されていた「漫言」を基に、「漫画」という名称を楽天に提案したのではないかと言われています。
あれ?そうなると現代漫画の事実上の祖は今泉一瓢も含まれるのでしょうか?
実際彼は1895年に“漫画”を冠した『一瓢漫画集初編』という風刺画集を出版しています。
この辺りの話は研究者同士で微妙に意見が分かれている所でもあり、断言することは難しいです。
しかしながらこの後の楽天の活躍を考えれば、彼が漫画家として後世に大きな影響を与えた人物であることは疑いようのない事実だとわかるはずです。
『東京パック』の快進撃と後続雑誌の存在

1905年に楽天は日本初のカラー漫画雑誌『東京パック』を創刊します。
「パック」という名称は、イギリスの雑誌『パンチ』に対抗する意図で出版されていたアメリカ発祥の雑誌『パック』にちなんだそうです。
この雑誌はB4版の全ページフルカラー仕様の漫画で構成され、さらに日本語だけでなく英語訳と中国語約も同時に表記されていた、
当時の雑誌としてはかなり斬新な構成になっていました。
月刊式で始まった『東京パック』ですが、翌年(1906年)には月に2回刊に、さらに翌年には旬刊(10日に1回)形式になり、
最盛期には月6万部を売り上げるベストセラーにまで上り詰めました。
『東京パック』がヒットした影響で、『大阪パック』(1906/赤松麟作)や『少年パック』(1907/柏原佐吉)といった“パック”を冠した後続雑誌が次々に創刊され、
あの国木田独歩が自身の出版社の経営不振から脱却するために出版した『上等ポンチ』(1906)もまた、『東京パック』の後続雑誌とされています。
「パック」という言葉が漫画の代名詞になるほど、楽天は漫画家として大成したのです。
その後『東京パック』は出版元の有楽社の業績不振に伴い、1912年に終刊することになりますが、
1912年に自身の名前を付け足した『楽天パック』と、家庭向けの『子供パック』を創刊し、『時事新報』に復帰する1914年ごろまで出版し続けたそうです。
キャラクター漫画の制作にも尽力

風刺画マンガを娯楽として発展させた楽天ですが、彼の活躍はこれだけに留まりません。
『時事漫画』『東京パック』で風刺画マンガを書く傍らで、個性的なキャラクターをいくつも生み出し、主人公として描くキャラクター漫画を連載していました。
例えば上の画像に描かれている『田吾作と杢兵衛の東京見物』(1902)は、“田吾作・杢兵衛”の田舎者コンビが東京の西洋文化を体験し、そのギャップに驚くという内容になっています。
1915年に連載を始めた『心のルンペン』には、間抜けで愛嬌のある“丁野抜作(ていのぬけさく)”が何度も失敗やドジを踏む姿が描かれ、大正を代表する人気キャラクターになったそうです。
1928年に『時事漫画』内で連載されていた『とんだはね子嬢』は、おてんば娘のはね子が活躍するギャグ系の作品で、事実上日本初の少女漫画という見方もできます。
他にも楽天はいたずらっ子の「茶目」や無気力で意志の低い貴族の「石野伯爵」などのキャラクターを登場させ、読者の共感を得ました。
風刺画だけに限らずエンターテインメントとしての漫画も同時に成長させていたのです。
晩年
『時事漫画』『東京パック』『楽天パック』等で精力的に活動した楽天はその後も絵と関わり続ける生活を送りました。
1929年にヨーロッパ諸国を漫遊した後に、パリで個展を開催。フランスから教育功労賞を得ています。
1932年に時事新報社を退職した後はスタジオを開設し、後進育成に尽力します。
1942年(1943年?)には大政翼賛会の命で、「日本漫画奉公会」を結成しその会長に就任します。
1948年には大宮市(現さいたま市)に「楽天居」という住居を構え、主に日本画や水墨画を気ままに描いて余生を過ごしたそうです。
1955年に脳溢血で死去。享年79歳。
現在「楽天居」の跡地には、既に紹介した「さいたま市立漫画会館」が建築され楽天の功績を今もなお伝え続けています。
夏目漱石が認めた天才・岡本一平

続いて岡本一平の解説になります。
一平は北澤楽天と同じく、明治時代後半から大正時代かけてマンガ活動を行っていた人物です。楽天とはちょうど10歳年が離れていますね。
ご子息は大阪万博の「太陽の塔」で有名な芸術家・岡本太郎その人です。
楽天とはまた違った漫画家人生を辿った一平ですが、一体どんな業績を残したのでしょうか?
幼少期の一平とその生い立ち

岡本一平は1886年(明治19年)に北海道・函館で誕生しました。
その後間もなく大阪へ、5歳の頃には東京へ渡る引っ越し生活を送っていたそうです。
教師だった父親の竹二郎が彼を画家にしたいという要望から、日本橋箔屋町の城東小学校へ入学し、芸術に囲まれた生活を送り始めます。
実は平凡(?)だった若手時代の生活

学生時代から武内桂舟や徳永柳洲、藤島武二といった日本画家の巨匠たちの指導を受けつつ、19歳の時には東京美術学校(現東京芸術大学)に進学するといったエリートの道を歩みましたが、
実は絵に対する情熱は周りと比べてそれほど強くはなかった模様。
父親に画家を目指すよう言われた一平ですが、実際は文章を書くのが好きだったらしいです。
美術学校を卒業した後は大貫かの子という女性と結婚し、1911年に岡本太郎が生まれます。
その間一平は何の仕事をしていたかと言えば、帝国劇場の建築塗装画や舞台の背景画を描く仕事をしていました。
エリートとは思えない、裏方寄りの仕事を選んだのは自分に絵の才能が無いと判断してのことだったようです。
実際、妻かの子が兄に対して、一平が凡庸な才能に落ち着いてしまってることを嘆く手紙を送っています。
その後1912年に小説『生霊』の挿絵の代筆を担当した際に、『東京朝日新聞』の渋川玄耳に見出され、社員として採用されましたが、
これが後の一平の人生を変える出来事になったのです。
文豪・夏目漱石との出会いと『漫画漫文』の流行

漫画記者になった一平ですが、ある人物との出会いにより大きな転機が訪れます。
それは明治を代表する文豪・夏目漱石でした。
漱石は一平の絵に長めの文章を付け足した「漫画漫文」という独自のスタイルを高く評価し、書籍として出版することを強く薦めました。
この話を受けた一平は1914年に『探訪画趣』という漫画書籍を出版。結果大ヒットを記録し、月収は200円(現在だと約60万円)を超えていたそうです。
また漱石は同著の序文を担当しており、一平の描いた漫画漫文を高く評価しつつ、
“捨ててしまうのはもったいないから、今のうちに本として出版したらどうだい?”
という旨のコメントを残しています。そこまで漱石は一平の才能を買っていたのです。
漱石からの強い後押しを得て自信をつけた一平は、その後も「漫画漫文」作品を次々に執筆し、大正から昭和にかけて、漫画界の流行のスタイルへと昇華しました。
ですが一平は「漫画漫文」以外にもう一つ、“ある形式”に挑戦したことがありました。
長編ストーリーを描いた“映画小説”

1922年に一平は『映画小説 女百面相』という作品を出版します。
「ん?小説?漫画じゃないんかい!!」と思うかもしれませんが、漫画と小説の合併作(漫画小説)と考えるのが良いかなと思います。
タイトル通り、この作品は映画をイメージさせるフィルムの形をしたコマ漫画を片側に描き、
もう片方のページに「漫画漫文」の時と同じような長めの説明文を添えています。
またフィルム内に描かれる絵は様々な角度やズーム表現などを再現した“映画的手法”が散見され、従来のコマ漫画にはなかったアクション性が含まれていました。
ユーモアで動的なコマ漫画と、文才に優れた一平の書く文章で一つの長編物語を描く。
売れないはずもなく、『映画小説 女百面相』は『探訪画趣』と同じく大好評を記録しました。
北澤楽天もコマ漫画で簡易的なストーリーを描くことはありましたが、大元の風刺画の影響もあってか、一平の映画小説ほどの長編を描いたことはありません。
一平の映画小説は、明治・大正期の風刺漫画からストーリー漫画への移行の象徴だと言えるでしょう。
妻・かの子との生活~晩年
かくして誰もが認める大スターの道を歩んだ一平でしたが、その裏には妻・かの子との波乱万丈な結婚生活も含まれていました。
1912年に『東京朝日新聞』の社員になったことで一平のもとに大量のお金が舞い込むことになりましたが、その影響で一平の私生活が荒れに荒れまくります。
翌年に長女(岡本太郎の妹)を授かりますが、夫婦関係の悪化が原因でかの子は心を病んで入院。間もなく長女も亡くなってしまいます。
その2年後の1915年には次男・健次郎を授かりますが、当時岡本家はかの子の愛人を含めた三角関係で同居しており、かなり歪な日常を送っていたようです。
(次男も長女と同様に年内に亡くなる)
1927年に映画小説に次ぐ長編ストーリー漫画『漫画小説 人の一生』の前編を出版。
1929年に自身の名前を付けた『一平全集』を出版。実に5万部の売り上げを記録しました。
1936年以降は小説活動を行うようになり、かの子のを献身的にサポートをすることもあったようです。さらには自身が手掛けた小説『刀を抜いて』が映画化・舞台化を果たします。
1940年にかの子病没。後に彼女との結婚生活を振り返った『かの子の記』を出版します。
1948年に入浴中に脳出血で死去。享年62歳。
夏目漱石に才を見出され、大正の漫画業界に新しい風を吹かした一平は、私生活も漫画家としても常識外れな偉人だったと言えるでしょう。
まとめ

いかがでしょうか。
風刺画の発展に尽力し、キャラクター表現に可能性を見出した北澤楽天。
映画的な手法を導入し、長編ストーリーが描けることを証明した岡本一平。
どちらの活躍も、今のマンガにとって無くてはならないものです。
この二人の志を受け継いだのが、“マンガの神様”こと手塚治虫ではあるのですが、彼が本格的に活躍するのはもうしばらく後のおはなし。
その前に、昭和を代表するマンガ作品が誕生することになります。
次回からは明治・大正よりもさらに濃い「昭和・戦後編」に入ります。
今回はここまで。オタッシャデー!!
...とはならず、今回は少しおまけコーナーを用意しております。
お時間よろしければどうぞご覧ください。
おまけ
今回の記事を執筆する上でいくつかのサイトを参考にさせていただきましたが、
思いのほか北澤楽天・岡本一平の作品を取り扱ったサイトが見つかったのでリンク先を掲載します。
- さいたま市立漫画会館
- 上記に記載済み。楽天の略歴や解説が見れます。
- 漫画誕生
- 楽天の生涯を実写化した映画作品。(映画の上映は終了済み)
- 国立国会図書館デジタルコレクション
- 一平の作品が閲覧可能。北斎漫画の時に初めてお世話になりました。
- マンガ図書館Z
- 楽天と一平の一部作品が無料で閲覧可能。(その他古いマンガ作品も見れます)
では今度こそ、オタッシャデー!!